
淀屋橋へやって来ました。淀屋橋ツインタワーの工事(写真の左側)が進んでいるようです。数年後には風景がガラッと変わりそうですね。
さて本日は、先物取引発祥の地を巡りたいと思います。
ここ堂島は、先物取引の仕組みが生まれた土地でもあります。
堂島の米市場は海外からも大きな注目を浴びていて、もしかしたら日本よりも海外の方が取り上げることが多いかもしれません。
淀屋の屋敷跡
淀屋橋の南西に「淀屋の屋敷跡」を発見!!石碑とレリーフが設置されています。
豊臣の時代から公共工事などを請負、巨万の富を得た豪商”淀屋”の屋敷跡です。
淀屋橋という名前の由来も”豪商であった淀屋が架けた橋”からきています。
鴻池家や天王寺家などに圧倒的な差をつけての豪商というのだから、現代でいうとビルゲイツやイーロンマスクくらいのイメージでしょうか?
その淀屋の屋敷前でお米の取引を行ったのが始まりです。
ちなみに5代目の淀屋辰五郎は、あまりに生活が派手すぎて江戸幕府に財産を没収されたよう。一説によると、自宅の天井をガラス張りにして、そこで錦鯉をかっていたそうな。
レリーフには、米俵を船から蔵屋敷へ移動させている様子が描かれています。
堂島米市場の跡
この米粒のモニュメントは、世界的な建築家・安藤忠雄によってデザインされた「一粒の光」。2018年に国内の株価指数先物市場が創設30周年を迎えたことを記念して健立されたものです。比較的新しいこともあって、きれいなお米の状態が保たれていますね。
堂島を世界の先物市場発祥の地として国内外に発信することを目的として作られたようです。
米切手や米手形という「おこめ券」を持っていれば、現物の米と交換できるという仕組みを発展させ、先物取引市場を作り上げたのがここ堂島です。
満期日に現物をやり取りしない帳簿だけの売買、差金決済という仕組みを考え、流動性の高い市場を作り上げました。
右側の図は、堂島の米市場を説明するときによく取り上げられるものですが、ここには米俵は描かれていません。差金決済なので、帳簿上でやりとりするだけです。
その日の取引時間が終わっても居残っているので、水を撒いて退散させる様子が描かれています。水をかけると、湯気がでるほど熱気に包まれていたというくらい熱中していたそう。そりゃ大金がかかっているので熱くなりますよね。
先物取引というと、商品先物であるとか指数先物などがあり、現代人でも理解に苦しむところなのに、この時代によくここまで認知されたのですね。パソコンも計算機すらない時代、数万人の取引を帳簿だけで管理していたと思うとただただ感心してしまいます。
巨大米粒の重さは9.5トン、最大長さは3メートルにもおよびます。
堂島米市場、その繁栄の跡を記念し、昭和30年(1955年)に寄贈されたものです。
なんか、丸出し感が強調されているのは、写真の構図のせいでしょうか?ww
それにしてもすごく楽しそうですww
当時、相場の情報は飛脚によって各地へ伝えられていました。
翌日には、堂島の情報は京都まで伝えられていたものの、もっと早く伝える方法はないか?ということで旗振り通信を発明。
ちょっと分かりにくいですが、上の右側の図でも高台で旗を振っている人が見えると思いますが、この旗によって情報を伝えていたのです。
ただ、江戸幕府は
「いやいやいや、相場の情報を伝えるのは飛脚だよね。飛脚の情報によって取引するのがルールだよね。不正に速く情報を得て、利益を得るなんてルール違反だよね」
みたいな主張をしたこともあったようです。
「パソコンで自動処理させるなんてルール違反だよ」ってのが典型的ですが、進歩と保守の対立はいつの時代もありますよね。
蔵屋敷跡
中之島にあるリーガロイヤルホテルの敷地内にも蔵屋敷跡のレリーフがあります。ここは「讃岐高松藩」の蔵屋敷があったところです。
場所は京阪・中之島駅3番出口すぐのところです。
ここでも米俵の陸揚げ、積み込みをしている様子が表現されてます。
こちらはリーガロイヤルホテルの南側、薩摩藩の蔵屋敷跡です。今は三井倉庫になっています。
天王寺公園には「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」を見ることができます。
記事はこちら>>>江戸時代の倉庫を見学「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」天王寺公園