
大坂の陣から400年を経ても沢山の人を惹きつけてやまない真田幸村(信繁)。2016年には大河ドラマとなり話題になったことも記憶に新しいですね。その影響は未だに収束せず、今もなお多くの人が幸村の足跡をめぐるため大阪・天王寺区を訪れています。
このエリアには、大阪城の出城である「真田丸」、幸村の眠る「心眼寺」、大坂夏の陣本陣「茶臼山」、抜け穴がある「三光神社」、幸村終焉の地「安居神社」、さらには「玉造日之出通商店街」や「幸村ロード」といった、彼を称えるスポットが点在しています。この記事では、そんな魅力的なスポットを一挙にご紹介します!!真田幸村の足跡を追いかける旅へ出かけてみませんか?
三光神社
三光神社は、真田幸村ファンにとっては絶対に訪れたいスポットの一つです。ここには、鮮やかな赤装束をまとった真田幸村の銅像や、玉造から大阪城までつながる地下通路「真田の抜け穴」など、彼にまつわる魅力がたくさん詰まっています。
社務所では、真田幸村の御朱印帳やお守り、うちわなど、幸村グッズの品揃えも豊富です。さらに、毎年11月には真田祭りが開催され、この時だけ「真田の抜け穴」の内部が一般公開されるのも魅力の一つ。真田幸村への熱い思いを感じながら、その足跡を辿りましょう。
真田山 心眼寺
「真田山 心眼寺」は、1622年に真田幸村と彼の息子大助の冥福を祈るために建立されたお寺で、大坂冬の陣で知られる「真田丸」の跡地に位置しています。ここは真田幸村のお墓があることで有名で、多くの人々が訪れています。
このお寺の境内には、坂本龍馬を暗殺したとされる京都見廻組の候補者、桂早之助や渡邊吉太郎のお墓もあります。歴史的な重要性を持つ人物たちの眠る場所としても知られています。真田幸村ゆかりの場所として、訪れる人々に幕末から戦国時代までの歴史を感じさせる場所となっています。
真田丸顕彰碑
2016年2月、明星学園のグランドとテニスコート前に、真田幸村の顕彰碑が立てられました。この学園の敷地は、かつて真田丸が存在した場所であり、真田幸村はここで徳川軍と壮絶な戦いを繰り広げ、勝利を収めた歴史的な地です。この碑は彼の偉業を称えるもので、地元や歴史愛好者にとって感慨深いスポットとなっています。「大坂冬の陣」陣立図、「大坂三郷町絵図」、「大坂冬の陣図屏風」などを見ることができます。
茶臼山
茶臼山(標高26メートル)は、天王寺公園の北側に聳える小高い丘です。この丘は大坂冬の陣では徳川家康の本陣として使用され、また大坂夏の陣では真田幸村の本陣として重要な役割を果たした場所として知られています。ここは歴史的な古戦場として、激しい戦闘が繰り広げられた地として名高いのです。
茶臼山の山頂には、大坂夏の陣の配陣図が設置されており、当時の戦局や陣営の配置を知る手がかりとなっています。訪れる人々は、歴史の舞台としての茶臼山の風景を通じて、かつての激闘や武将たちの姿を想像し、その歴史的な価値に触れることができます。
安居神社
安居神社は、真田幸村の終焉の地として知られています。ここには本殿のすぐ横に、真田幸村の銅像が立っており、彼の功績と武勇をたたえています。
大坂夏の陣では、真田幸村率いる豊臣軍が、15万人に対してわずか5万人の兵力で立ち向かいました。兵力では劣勢でしたが、真田幸村は決死の覚悟で徳川軍に立ち向かい、家康に自害の覚悟をさせるほどまでに迫ったと言われています。その勇敢な戦いぶりは称賛され、後世に語り継がれています。
しかし、幸村の手から家康の首を取るまであと一歩のところで、幸村は敵兵・西尾宗次によって槍で突かれ、討ち取られました。その最期の瞬間、幸村は「わしの首を手柄にせよ」と言ったと伝えられています。真田幸村は享年49歳でした。安居神社は、その勇敢な武将の精神を称え、多くの人々に幸村の偉業を伝えています。
玉造 幸村ロード
地域活性化の活動の一環としてJR玉造駅すぐの横丁を「玉造 幸村ロード」と命名。100メートルほどの細い路地に真田十勇士のパネルなどが置かれています。
玉造日之出通商店街
大阪市天王寺区玉造にある4つの商店街の中で、一番南に位置するのが『玉造日之出通南商店街』です。JR玉造駅から徒歩8分程度の場所にあり、地元では『真田丸ストリート』として有名です。